↑晩翠草堂の庭
↑「天地有情」の碑
土井晩翠は少年時代から新体誌や英文学を愛好し、
旧制二高進学後は「尚志会雑誌」に誌を発表、東京
帝国大学在学中には、高山樗牛や大町桂月などと
ともに、「帝国文学」の編集員を務めた。
明治32(1899)年、樗牛らの支援を受け第一詩集
「天地有情」を刊行、清新な熱情と叙情詩的な作風に
よって、詩壇を二分する晩翠・藤村時代を形成した。
明治33(1900)年、旧制二高の教授として帰仙すると
欧州遊学の一時期を除き仙台を離れず、詩集「暁鐘」
「東海遊子吟」「曙光」などを次々と刊行し、詩人と
しての名声を確立するとともに、ホーマーの「イーリアス」
「オヂュッセーア」を原典から完訳するなど、文学史上に
大きな足跡を残した。
晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」は。明治34年
に中学唱歌に採録されたもので、世界の人々愛唱されて
いる不朽の名作である。
こうした業績に対し、昭和25(1950)年、詩人として初めて
文化勲章が贈られている。昭和27(1952)年8月、仙台城
本丸跡に「荒城の月」詩碑が建立されたのを見届け、
間もなく永眠した。享年80歳であった。
昭和20年、戦災によって旧邸と3万冊もの蔵書を焼失する
という苦境に陥った際、晩翠会の人々が発案して、晩翠草堂
を建設し贈っている。「天地有情」の碑は、旧制二高の教え子
が晩翠に贈ったものである。
(以上、晩翠草堂入り口パネルより)
仙台のことをいろいろと知らなければいけませんね。
仙台生まれで仙台育ちであるにも関わらず、知らない
ことが多すぎて反省することばかりです。
ちなみに、なぜ急に晩翠草堂の記事を書いたか。
現在制作中の昭和24年地図復刻版に当時の
できごとを調べていたのですが、市制施行60周年
記念式挙行し、本多光太郎、志賀潔とともに
土井林吉(晩翠)が名誉市民に推戴されたからです。
同年4月この年の4月、晩翠草堂前に「天地有情」の
碑が設置されました。