風の時編集部 【仙台の原風景を観る、知る。】

“仙台の原風景を観る知る”をテーマに、2005年「風の時編集部」を設立。100年前の古地図『仙台地図さんぽ』や仙台城下絵図『仙台まち歩きシリーズ』、昭和時代の写真集『仙台クロニクル』等を企画。2023年現在42作を発行 ●風の時編集部 代表 佐藤正実 ●Eメール:info@sendai-city.net ●TEL:022-295-9568 ●〒983-0852 仙台市宮城野区榴岡3-11-5 A610 ●楽天市場ショップ→http://rakuten.co.jp/kazenotoki/

NPO法人20世紀アーカイブ仙台で「仙台市若林区ムービーさんぽ」を製作。

今日、NPO法人20世紀アーカイブ仙台で若林区まちづくり
助成を受けた「わかばやしムービーさんぽ」の取材を行い
ます。(年度内完成予定)


江戸時代、城下の南の入り口だった河原町。そこから、
南材木町、穀町、南鍛冶町、荒町へと続く道は、城下の
中心地「芭蕉の辻」を抜けて北へ向かう奥州街道でした。
多くの人や物の行き交った道は、現在も若林区内に
残っており、400年近い歴史を刻む道筋を辿ることが
できます。そんな由緒ある町々を訪ね歩く予定です。



現在の七郷堀。南染師町は七郷堀沿いにできた文字どおり「染師」の町



地図内の青いラインが七郷堀。堀添いに青山染工場や荘司染工場
などの染物屋さんの名前が見える(大正元年発行仙台市全図)



染物の染料を洗い流すため、堀に降りる時に使われた階段



河原町、南材木町、石切町、南染師町、五十人町の
5町内会さんのご協力を得ながら、現在と過去を記録し、
若林区域の由緒ある町名の由来や意味などをわかり
やすく伝える映像作品をめざします。
NHKブラタモリ」の仙台版となれるように、アイディアを
出し合ってがんばりましょう。


◆染師町(そめしまち)
 藩祖政宗が仙台開府の際、米沢・岩出山と従って
来た染師の一団を、越路附近(後の御霊屋下)に住
居せしめたが、寛永13年(1636)2代藩主忠宗が
御霊屋建設の時、土地を七郷堀の上流に与えて
彼等を移した。それが今の南染師町である。


当時ここに移住した染師は6軒で「伊達御供」と称した。
漸次染師町が繁昌し、同業を営むものが11軒を数える
ようになった。そこで町内の繁栄と幸福とを祈るため、
京都三条の愛染町から愛染明王の分霊を勧請して
この町の氏神とした。年代は寛文4年(1664)と伝えて
いるが、数度の火災で堂宇や記録を失っているので詳か
でない。現在の堂宇は文久年間に大修理を施したもの
である。


次に北日町の南に位置する上染師町ほ開府直後か
ら染師が住んでいた町屋敷といわれている。正保2・3年
(1645〜46)の絵図には既に染師町と町名が書かれて
いる。そして明治時代まで単に染師町と呼ばれて来たが、
南染師町との関係から、上(かみ)の字を添えて上染師
と近年呼称したものである。


上染師町は城下町の序列から見て、慶長15年(1610)を
幾何も下らない頃に割り出された町と見られている。
そして染師町の各屋敷は干場をするため、他の町屋敷が
間口六間なのに対し、六間半の間口を与えられていた。


なお南染師町は主として木綿物を扱い、大町との間に
専属関係を結び、また足軽の脚絆の類を扱ったのに対し、
上染師町は主に絹物を扱い、藩を始め諸士の御用を
勤めたようである。
明治以後、上染師町の染物業が没落したのに反し、
南染師町のそれが今日まで命脈を保っている大きな原因
は、用水(七郷堀)の便と広く木綿物を取扱った関係で
あると見られる。(「仙台地名考」 著:菊地勝之助より)

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風の時編集部 代表 佐藤正実
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100年前の仙台を歩く 仙台地図さんぽ

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