最近、「アーカイブ」という言葉ばかりが一人歩きしているようにも思える。
「アーカイブ」は決して特別な手法でもないし、新しい言葉でもない。ましてや収集と保存をすることだけがアーカイブではない。私は「記録」と「記憶」のふたつの要素が相まってこそアーカイブは完成するものだと思っている。どちらかが欠けても、後世には伝わらない。
地域アーカイブにおいてもそれははっきりしている。写真をいくら集めたとしても、その意味がそのまま伝わることは、まずないからである。
例えば、仙台空襲で約12,000戸が全焼し死者900人、負傷者1,700人という大被害に遭った仙台中心部の写真。それを観て私たちはどれだけ空襲について理解出来るのか?おそらく(私も含めて)ほとんど伝わらないはずである。
空襲の翌朝、焼夷弾によって全焼した町を広瀬川から定禅寺通を歩いた、その時に感じた地面の熱さや焼けただれた臭い・・・昭和20年7月11日の朝のこんな思い出を語る人の言葉が加わって、初めて空襲の酷さが伝わってくる。そして、ここで初めてジブンゴトへの一歩となる。
同じように、震災の写真や動画を垂れ流ししたところで、「またこれか」と思われるだけで、決してジブンゴトにはならないだろう。大手メディアにしか出来ないことは多々あるが、パーソナルメディアにしか出来ないことはもっと多くある。震災翌日の朝日を観た時の太陽の心強さ、越冬したアゲハチョウに対する希望、蛇口から水が出た時の安心感、日々の余震の恐怖、4月7日深夜に折れた心。カタチにはしにくい人の思いや感情。それをお涙ちょうだいな編集に偏らず、ストーリー立てせずに残せるのか、その思いを伝えるために必要になってくるのが3.11体験者である市民の力。
「アーカイブ」を形成するのはモノではなくヒト。どれだけの数の資料を集めたかが重要なのではなく、どれだけその資料に意味付けできるのか。つまり、「記録」に「記憶」を乗せる作業、それが「アーカイブ」なのだと思う。空襲の写真同様、後世の人達にとって、それらの記録を検証しやすいよう、使いやすい資料として残すために。
アーカイブの真骨頂はこれからだ。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台
公式Web:http://www.20thcas.or.jp/
3.11市民が撮った震災記録Web:http://www.sendai-city.org/311.htm/
3.11キヲクのキロク、そしてイマ。Web:http://www.20thcas.org/
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