二十人町と荒町を結ぶ南北に長い丁。藩制時代初期には北が侍屋敷、南は足軽町で、後に全てが仙台城の大番組に勤める平士たちの屋敷となった。 正保絵図には“深田”と記されるほどの湿地だったことから、「谷地小路(やちこうじ)」とも呼ばれ、城北の中山から…
引用をストックしました
引用するにはまずログインしてください
引用をストックできませんでした。再度お試しください
限定公開記事のため引用できません。