二十人町と荒町を結ぶ南北に長い丁。藩制時代初期には北が侍屋敷、南は足軽町で、後に全てが仙台城の大番組に勤める平士たちの屋敷となった。
正保絵図には“深田”と記されるほどの湿地だったことから、「谷地小路(やちこうじ)」とも呼ばれ、城北の中山から刈り取ってきた柴を埋めて道を作られて「柴田町※」と呼ばれたこともあったという。
明治20年の鉄道開通で南北に分断され、昭和48年以後は再開発で一変した地域。(※宮城県仙台第一高等学校の南東にある「表柴田町」「裏柴田町」とは異なる)
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