東七番丁の東側に並行して割り出された足軽屋敷で、南は荒町、北は二十人町に行き当たる。柴田郡大河原村の足軽衆が置かれたので、かつては「大河原町」とも言われた。 封内風土記には「八番丁以下、今廃宅たり」とあり、天明の大飢饉(1782年〜1787年)をき…
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