土橋通から石切丁・八幡町に通じるまち。京都醍醐報恩院の末寺であった覚性院を、1642(寛永19)年に国分盛重(こくぶんもりしげ)の子、実永が現在の東六番丁小学校の地に再興した。
その後、東照宮造営の時に敷地が御仮宮となったため、1655(明暦元)年にこの地に移った。覚性院丁という名はこの寺の存在に因むが、明治初年に廃寺となった。
※国分盛重(こくぶん もりしげ)・・・伊達政宗公に仕えた戦国時代の武将。はじめ伊達政重を名乗り、国分氏を継いで国分政重、次いで国分盛重と名を改め、最終的には伊達盛重と名乗った。
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