「仙台・青葉まつり」は、もともと仙台東照宮で江戸時代から行われた古い祭礼「仙台祭」がルーツ。
東照宮が建つ地は、かつて玉手崎(たまてざき)と呼ばれ、天正19(1591)年10月に徳川家康が葛西大崎一揆の視察を終えて江戸へ戻る途中、伊達政宗公と宿陣したことから、祭神ゆかりの場所として選ばれた。
この「仙台祭」とよばれた東照宮祭礼は、藩政時代、東日本屈指の祭として知られ、1655(明暦元)年、東照宮建立の翌年に始まったこの祭の主役は祭礼行列で、足軽組・騎乗の武頭(さむらいがしら)と供廻(ともまわり)、その後に各町の山車(だし)、御輿(みこし)と続いた。各町は豪華な山車を誇り、大きなものは高さ約12メートル、担ぎ手は最大72人、最も多い年で70台もの山車が城下を練り歩いたとされる。『近國遠國までも音に聞こえて群衆(ぐんしゅう)せり』(やくたい草)の記述があるように、祭礼当日の仙台城下は大変賑わい、仙台藩主は代々この巡行を国分町西側で拝するのが慣例だった。
明治7年に仙台藩粗伊達政宗公を祀ってできた青葉神社(青葉区通町)が建立されると、仙台祭は青葉神社例祭となって受け継がれ、政宗公の命日である5月24日に行われるようになった。明治20年以降からは、それまで町や丁で各一台ずつ出していた山鉾が、大町一・二丁目で一台、南町と柳町で一台というように旧御譜代町の山鉾が減少したのに反して、東一番丁、名掛丁といった振興商店街が新たに山鉾を出すようになるなど世情を反映し、明治18年の伊達政宗公没後250年祭には多くの山鉾が市中に出て盛大に行われた。しかし、明治後期に電気の普及によって電線が巡行の障害となり、明治32年5月の仙台開府300年を最後に青葉神社例祭は幕を閉じた。(昭和39年刊「仙台事物起原考」より)
明治維新後は、天長節奉祝(明治4年)、桜ヶ岡神宮祭礼(明治5年)、青葉神社祭礼(明治15年)、招魂祭(明治20年以降)にその伝統が受け継がれたが、1899(明治32)年の仙台開府300年祭を最後としている。
昭和31年頃の青葉神社例祭(青葉まつり) (撮影/阿部幹夫氏)
1956(昭和31)年にまつりが復活。この写真はこの昭和31年頃の青葉神社例祭(青葉まつり)で、旧仙台市役所庁舎前を練り歩く武者行列の姿が映る。
その後、昭和40年に再び祭りは途絶え、伊達政宗公没後350年祭の1985(昭和60)年に、青葉神社例祭を市民の祭りとして復活したのが「仙台・青葉まつり」。今年で第30回目を迎え、5月第3週目の土・日に開催される。高さ約6メートルの山車は、往時に比べ小振りではあるが、藩政期の町人たちの粋を感じつつ、すずめ踊りのお囃子とともに仙台の時代絵巻を味わいたい。